2016年1月1日(金)

 
野坂サンと米


 2015年12月9日、「野坂昭如」が旅立った。「昭和ヒトケタ」を中核とするヒトツの時代の終焉。直接戦場には行かなかったが、「銃後の少国民」教育を受け、疎開、或いは勤労動員、空襲、飢餓をテッテ的に体験し、敗戦を機に、180度態度が変わったオトナへの不信から、一種ア

ナーキーな性格と行動パターンを共有した世代。
 付き合いは1957年、三木鶏郎サンの冗談工房から。サングラスでニヤリと世間見透かす偽悪家。直木賞取って多忙きわめる70年に半分冗談で「マリリンモンロー・ノーリターン」翌年にそのB面「黒の舟唄」書いてから、なんともフシ

ギな帯同歌行脚45年。昨年10月に体調悪化「週刊金曜日」連載コラム「俺の舟唄」の口述筆記原稿が書けなくなり、急遽依頼を受け、「歌手ノサカ裏方」として2回ほど代筆仕った。その後立ち直って自分の病状報告を載せ、その末尾に「誤嚥など起こしてる場合じゃない。桜井さん、新曲、お願いします」と冗談飛ばす余裕。しかし次の原稿仕上げた直後に逝ってしまった。
 12日の密葬は上天気、死によって十数年の脳梗塞後

遺症ジレンマから解放されたためか、なんとも安らかな寝顔。往年のダンディ・野坂の表情に戻っていた。昔からの編集者仲間、73年に野坂サンが始めたラグビー・チーム「アドリブ・クラブ」メンバーなどが野坂邸に参集、バスで斎場に赴き骨を拾った。
 19日に青山斎場で一般告別式。先ず本人の「黒の舟唄」が流された後、永六輔葬儀委員長の挨拶に始まり、五木寛之氏の弔辞。瀬戸内寂聴サンの心篭もった弔辞を壇ふみサンが代読。野坂夫妻と親しかった佐藤陽子サンのヴァイオリンによるバッハ「アヴェ・マリア」の献奏。そして野坂サンの娘婿、田中伝左衛門氏の小鼓と田中伝十郎氏の笛による「一調一管」《獅子》で締めると言う、いかにも野坂サンらしい清新な「音楽葬」。参列者の献花の終り

に、「アドリブ倶楽部」メンバーの部歌斉唱。この日も快晴温暖、予定通り無事終了。
 その多角的派手派手パフォーマンスから、マスメディアではもっぱらトリック・スター扱い。しかし勿論本質は硬派物書き、そして一切妥協ナシの論客。テーマは一貫して日本の「コメ」。TPPの思惑など屁とも思わぬノサカ式農本主義。ドコカで「天皇」とつながっているような。人口構成も生活スタイルも、そして

田圃自体も激変した今の日本では、論理的には破綻しているワケだがドッコイ、やがて来る「日本の餓死」を見据えた上での戦争再燃への警告・原発反対。「沖縄」への贖罪感は最後まで重かった。生き残ったワレラ昭和ヒトケタ連としては、リーダー失っていささか浮き足立つだった憾あれど、ギリギリその想いを継いで行くっきゃない。合掌。
(桜井 順=歌手ノサカ裏方)
(写真:上から)●『野坂歌大全Ⅰ〜桜井順を唄う』(2011年発売)。●1987年夏、農協CM制作のため、新潟蒲原平野の田圃バックに関係者一同フォト。左から2人目カメラの浅井慎平サン、3人目桜井、4人目アドリブ・メンバー中島君、右から2番目野坂サン。●「アドリブ倶楽部」掲載写真。



不死唯生腐


 二〇〇〇年九月、野坂昭如の自選短篇作品集〈野坂昭如コレクション(全三巻)〉の一巻目『ベトナム姐ちゃん』が国書刊行会より刊行された。私はこの年同社に入社し、営業部に配属され〈野坂コレクション〉の営業担当として色々動くことになった。ただし、これはたまたまではなく自ら担当を熱望した結果で、私は野坂昭如の大ファンだったからだ。私が野坂作品にハマったのは遅く、大学二年

あたりだったか、古書店で野坂の長篇『てろてろ』を見つけ、一読「凄い!」と感動して、その他の単行本も大量に買い込んだことに始まる。その後、数年でほぼ全作品を集めた。九〇年代後半、代表作『火垂るの墓』『エロ事師たち』以外の野坂作品は新刊書店にはほとんど見当たらなかった。やがて就職先の希望を出版社に絞り活動したとき、新潮社の面接で入社してどういう本を出したいかと聞か

れ「野坂昭如全集です」と答えると失笑された。その後受かった会社は今も在籍している国書刊行会のみで、四月に歓迎飲み会で先輩と話をしていて、ふたたび野坂が好き云々の話になり、その先輩から「へー、今度野坂の選集出すんだよ」と言われ、絶句した。そして、営業として何でもやります!と宣言したのだった。
 コレクション刊行を盛り上げるために、まずは野坂昭如がどれだけ凄いかを世の中に知らしめたい。当時は公式HPも無く、会社のHPも試作段階だったので、自分でファンページを作ることにした。その名も〈野坂昭如ルネッサンス〉。黒眼鏡団とは私一人のことだが、黒魔団や土龍団が念頭にあったと思しい。このページはもちろん今は残ってないが、インターネットアーカイブでテキストのみ見

つけることができた。これがトップページで、気合いが空回りしている稚拙な文章は恥ずかしい限りだが、私が野坂ワールドにハマる切っ掛けとなった長篇『てろてろ』を中心にその魅力は説明できていると思う(私は当時本気で日本文学は野坂昭如で終わったと考えていて、実は今もそう思っている)。TーCUPのBBSページも作り、そこは〈不死唯生腐(しなずしていきぐさるのみ)〉。七〇年代、野坂がサインに書き添えていた言葉である。ただし、コレクション刊行の際、先生にこの言葉を書いてくれと頼むと「??」という顔をされた。
 さらにコレクション刊行記念の企画として野坂原作の映画がたくさんあるので〈野坂昭如原作映画祭〉を提案して、東京・京都で特集上映をすることもできた。

東京はテアトル新宿、京都はみなみ会館。なぜ京都で開催したのかというと、私が京都出身で学生時代みなみ会館に通っていたからである。それにしても、入社したばかりの新人の企画を採用してくれて、さらに特集チラシの文章まで書かせてくれたのは驚くばかりだ。私がファン丸出しでガツガツしていたからだろうか。また、国書刊行会の企画ではないが、野坂昭如がクレイジーケンバンドと共演したオールナイトイベント〈青山246深夜族の夜〉開催もこの年だ。当時狂うほど好きなバンドと狂うほど好きな作家が一緒に歌っているのを観て恍惚となった夜。野坂+CKBの最高な新曲「時代の風が騒ぐ夜」(もちろん作詞は能吉利人、作曲桜井順)はこの晩に披露されたのだったか。♪マリファナまわせ コギャル

もまわせ/マリファナまわせ オバンもまわせ……(この曲は結局リリースされなかったと記憶する)。
 サイン本を作るために野坂先生のご自宅に伺ったことがある。同期入社の佐々木さん(二階堂奥歯という筆名でライターもしていた才女)に手伝いを頼んだ。野坂邸の居間で先生に黙々と本にサインを入れてもらっていると、フト野坂先生から「ちょっと…ビール買ってきて」と、クシャクシャのお札を渡された。お酒は止められているのでは?と思ったが、無論止められているから私のような小僧に買いに行かせる。高級住宅街なので近くにコンビニが無い。しかし、野坂昭如のパシリとなり酒を探していることが実に誇らしく実に嬉しい。汗だくになって買って戻ると、野坂先生はニヤニヤしながら黙って袋

を受け取り、別の部屋に置きに行った。その時、ああ、いずれ一人でぬるいビールを黙って呑むんだな……と思ったのをいまでも鮮明に憶えている。
(樽本周馬=国書刊行会編集部)
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●(写真左)2000年9月2日青山CAYにて、野坂昭如、幻の名盤解放同盟らをゲストに迎えて行われたイベントにおけるクレイジーケンバンドおよび野坂昭如のパフォーマンスを収録したCD『CKBライヴ 青山246深夜族の夜』(08年/PーVINE)。