昨年十二月から大阪で「開運顔相占い」を始めた。エンタメ系の仕事は「占い」ということで何でもやらせていただいているが、自ら「占い」を名乗るのは池袋西口の路上で「観相★占い」というPOPを置いて修行していた十二年前以来だ。昨年九月、マスメディアよりも人間と向き合っていくために大阪に引っ越したのだが、鑑定場所が決まるまで三ヶ月もかかった。 「開運顔相占い」の店は、
大阪府堺市の泉北高速線光明池駅の隣にある『光明池サンピア』というショッピングセンターにある。鑑定場所を探し始めて最初に訪れたのがここで「ピン」と来たのだが、占いコーナーには「タロット占い」が入っていた。その後、光明池駅のその他の商業施設、和泉中央駅、栂・美木多駅、泉ヶ丘駅、堺東駅、鳳駅、足を伸ばして大阪いちの繁華街ミナミがある難波、心斎橋と探したのだが、これだという場所が見つからない…… 探し始めて二ヶ月以上が過ぎた十一月十七日。やっぱり『光明池サンピア』がいいとタロット占いの人に直接電話をした。場所を譲っていただけないかと…。そこからはトントン拍子に事が進み、二四日午前中に一緒にサンピア事務所に行き挨拶。翌日夕方には審査
が通り、二六日には契約詳細や入居時期の打ち合わせをし、あとは契約書を交わすのみとなった。 二ヶ月半も何も決まらなかったのが嘘のように、あっという間に決まった。初恋の人に彼氏がいて無理だと諦めていたけど、告白してみたらすんなりOKだったみたいな。運命とは不思議なもので、この日は東京時代に鑑定ルームを借りていた『古本ギャラリーひらいし』が閉店する日だった。『ひらいし』は三階の階段正面の部屋で『サンピア』は三階のエスカレーター正面の部屋。八月末にスキンヘッドにして髪が生え揃って池袋絵意知の顔に戻ったタイミングで再開したのも面白い。運命は自分で切り拓いていくものだけど、目には見えない何かがあるのも実感した。泉の北にある泉北光明池の光る明るい池
| 袋絵意知としてそんな運命の話をしていきたい。 その翌日には大阪も動き出した。ちなみに『光明池サンピア』のサンピアは 「サン=太陽」「ピア=古代ギリシャで城壁のない開かれた都市」という意味だ。 ︵池袋絵意知=観相家・顔研究家・顔面評論家︶ |
私は世界の音を聴いた
音楽、書籍、映像と、あらゆる分野に電子配信の波押し寄せる昨今、もはや手紙や葉書を送り合う習慣などは、何か特別な行為になってしまった感さえある。 ところで、あなたはベリカードというものをご存じだろうか? 簡略に言えば、ラジオやTVの視聴者が放送局に対し「受信報告書」
なるものを作成、送付したのち、その証明として放送局が発行するポストカードのことである。プリントされているデザインはその放送局の国柄や郷土色を反映させたものが多いが、メッセージはほぼ「TNX FR UR QSL」(受信して戴き、ありがとうございます)と謝辞を示す業界
的な略語で統一されている。ヴェリフィケイション・カードの略であるから本来はヴェリカードと記したいところだが今回は昔馴染みの表記でご容赦戴きたい。 一九八二年、中学校に上がるや否や完全に深夜ラジオの虜となった私は、ある日偶然手に取った山田耕嗣著『BCLデータブック』にたちまち感化されることになる。BCLとはブロードキャスティング・リスナーの略で、つまりは放送受信愛好者を差す言葉だ。当然のことながら、放送受信という言葉がカヴァーする範囲は広く深い。折から深夜雑音混じりに聴こえてくる朝鮮放送やモスクワ放送に未知の世界を感受していた私は、その魅力的なBCL本に導かれるままAM、FMは言うに及ばず、短波、VHFーTV、UHFーTVと電波愛好の裾野を順調
に広げて行った。受信しては報告し、報告してはベリカードが届くのを心待ちする清澄な少年の日々。趣味が高じ、ワイヤレスマイクを使ってミニFM曲の真似事をしたり、購入したソニー製のBCLラジオで無線やTVの中継波、果てはどこかの家に仕掛けられた盗聴器らしき電波まで拾ってしまい聴取に及んだこともなくはなかった。危うく本当の電波系になりかけていた私を救い出したのは、他でもない一九八三年のマイコン・ブームだったのだがそれはまた別の話。収集したベリカードは今でも大切にアルバムに閉じられ、世界中から飛んでくる音に想像力の翼を広げたありし日の純粋な少年の姿をそこに刻んでいる。 ︵関根敏也=リヴル・アンシャンテ︶
てりとりぃアーカイヴ(初出:月刊てりとりぃ#12 平成23年2月26日号)
LAについて
僕の住んでいるLAの家は小さな山の南斜面の中腹にある。いつも散歩する近所の坂道の途中に眼下に街が見晴らせるところがあって、そこで一息つくのだが、そこからほぼ180度LAの中心部を見ることができる。左方、東に高層ビルの集積したダウンタウン、右方、西にサンタモニカの街と海が見える。ダウンタウンとサンタモニカの間は三〇キロメーターほど。東名高速でいえば用賀から厚木、関越でいえば練馬から川越の先ぐらいの距離だ。南正面には小高い丘があって、その手前はカルヴァーシティ。昔のMGMスタジオ、いまのソニー・ピクチャーズのスタジオがある街だ。 ソニースタジオに映画の人達がサウンドステージと呼んでいる巨大な音楽録音スタジオがあって、そこでは100名規模のオーケス
トラが同時録音できる。もっとも今は音楽も映画も低予算時代に突入し、大きなオーケストラはジョン・ウィリアムズなど少数の幸福な作曲家しか使うことはない。いい時代を知っている僕はちょっとさみしくなる。ヘンリー・マンシーニ、ジェリー・ゴールドスミス、ミシェル・ルグラン、モーリス・ジャールなど20世紀を代表する作曲家がそれぞれに個性のあるオーケストラ・サウンドをサウンドステージで録音していた。名作曲家のスコアを世界中から集まってきた飛び切り優れた演奏家が録音するのだから本当にすごかった。こういった一流演奏家の読譜能力は異常に高く、本当に驚かされたものだ。ドラマーのハービー・メイソンに聞いたのだが、演奏中に進行中の小節を見ているのではなく、次の小節やもっと
先まで見る訓練をするのだそうだ。 丘の向こう側にはロサンジェルス国際空港(LAX/写真左)がある。空には常時10機以上の飛行機が一定間隔をおいて一列に並び、着陸待機しているのが見える。空は大きい。僕が見ている一帯がLA盆地といわれるLAの中心で、おそらくLA全体の10分の1にも満たない。大きな空の下にフリーウェイが縦横に果てしなく続き、LAは今も拡
大している。フリーウェイに車の流れが途切れることはなく、人口増加によって渋滞が日常化している。 LA盆地とその周辺にはスペイン語を話す人が半数以上いる。中南米からの移民だ。そして韓国人、中国人、ヴェトナム人、ロシア人、ヨーロッパのあらゆる国からの移民が暮らしている。 セルゲイ・ラフマニノフは、ロシア革命後、スイスやNYに転々としたが、最後はLAに来て一九四三年にべヴァリーヒルズで亡くなった。そしてアルノルト・シェーンベルクは、ナチ政権下のウイーンから亡命し、UCLAやUSC(南カリフォルニア大学)で教え、一九五一年にLAで亡くなった。弟子で一番有名なのはジョン・ケージだ。 ︵村井邦彦=作曲家︶
|