[桜井順×古川タク]
日本のジャズ・シンガーの嚆矢、二村定一の怪曲・秘曲を集めたCDが発売
戦前にエノケン(=榎本健一)と舞台や映画で名コンビを組んでいたエンターテイナー・二村定一は、流行歌手のパイオニアであり、日本最初のジャズ・シンガーとも呼ばれる。「私の青空」や「アラビヤの唄」、戦後にフランク永井がリバイバル・ヒットさせた「君恋し」も二村が昭和の初めに歌ったのがオリジナル。シラノ・ド・ベルジュラックを想起させる大きな鼻がトレードマークで〝べーちゃん〟の愛称で親しまれた
が、戦後間もない昭和二十三年に四十八歳の若さで早逝してしまったこともあり、謎の部分が多い人物でもあった。 先ごろ、メーカー四社の共同企画によるCD「ニッポン・モダンタイムス」シリーズから『私の青空~二村定一ジャズ・ソングス』(ビクター)が出され、併せて毛利眞人氏による優れた評伝「沙漠に日が落ちて~二村定一伝」(講談社)も出版されたばかりだが、それに追い討ちをかけるよ
うにリリースされたのが今回発売された『街のSOS!』である。SP盤の収集家として著名な保利透氏が主宰する〝ぐらもくらぶ〟のレーベル設立第1弾となる、満を持しての発売だけあって、その内容は充実の一途に尽きる。 モダンなジャズ・ソングが中心のビクター盤に対し、こちらは国産のマイナーレーベルで展開された、より大衆的なエロ・グロ・ナンセンス路線の作品集。ともすれば下世話になりがちなギリギリの線だが、オペラ出身の正攻法テノールと、後に鍛えたビング・クロスビーばりのクルーナー唱法もあってか、今聴くと文化の香りさえ感じさせるのは、単に戦前の珍しい録音というだけでなく、二村の育ちの良さと教養に支えられたものとおぼしい。抜群の表現力で歌われる作品群は、
「キッスOK」「ほんに悩ましエロ模様」「女!女!女!」など、かなり際どいタイトルの怪作が並び、エノケンとの共演「エノケン二村 歌道楽」も収録されている。 毛利氏による仔細な解説は読み応え満点。相当な手間隙をかけたと思われるマスタリング作業にも敬意を表したい。 それにしても今後のレコード復刻、殊にSP時代の音源については、個人所蔵の音盤や資料がますますポイントとなってゆくことは必至だろう。 (戸里輝夫=ライター)販売:(株)メタ カンパニー TEL:03-5273-2821 FAX:03-5273-2831 http://www.metacompany.jp
てりとりぃアーカイヴ(初出:月刊てりとりぃ#8 平成22年10月23日号)
私の中の浅川マキ
マキさんは我が家にとって色んな意味でルーツである。私の父、田村仁(タムジン)は若い頃、雑誌の人間ルポで初めてマキさんの写真を撮影し、それをマキさんに直接持っていった。その時すでにファーストアルバムのジャケット写真が決まっていたタイミングだったが、マキさんはスタッフの反対も押し切り父の写真を使用した。その一枚が父初のジャケット写真であり、それからタムジンとい
うフォトグラファーが数多くのアーティストのジャケット写真を撮るきっかけになった。マキさんの一瞬の強烈なインスピレーションから全てが始まった。 先日、マキさんの本を作る為に父が撮った七〇年代から今までの写真を焼く為の暗室作業をした。父はネガを見ながら言った。「俺、反省してんだよ。若い頃は見せるのも嫌だった写真がほとんどだったけど、実はいい写真いっぱいあったん
だよな」と。 当時、外に出たのはいつも何百枚の中の一枚だった。でもネガには何百、何千の浅川マキが居た。マキさんは強固たるこだわりの人だったので、音に関しても写真に関しても埋もれたままの作品がたくさんある。年月が経ったから言えるのだと思うが、それらがあるから一枚が活きてくる時期と、隠れていたもの達が突然輝いてくる時期があるんだろうと思う。 ある時、マキさん自身がずっと構想していた映像DVD制作の為に、父は大量の映像をマキさんに送った。
その中から何本かの映像を厳選していく作業に、マキさんが愚痴を漏らしたことがあった。 「私目が悪いでしょ… もうこれだけのものをしっかり厳選していく作業が大変でね…」と。私がふざけて「マキさんなら、目を瞑ってクジを引くみたいに何本か厳選してから見始めたって、それはそれでカッコいいじゃないですか」と余りに適当な事を言った。マキさんは3秒位黙ったあと、吹き出して、「あんたも一流だね!ありがと!」と言って、また笑った。 マキさんの訃報を聞く7日前。マキさんからハガキが届いていた。偶然にも、まだこの厳しい中を生き抜いていく私へのエールだった。 ︵湯山玲央奈=フォトグラファー︶
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