2013年1月18日(金)

アジアで夕食を──この世界の至福

 旅好きの私にとって、その土地の美味しいB級グルメを発見することは無上の喜びである。ことにアジアの繁華街は質の高い大衆食堂も多く、夜ともなればそこここに設営された屋台から立ち上る香ばしい噴煙にいやが上にも食欲を刺激されてしまうことになる。
 食の宝庫、台北では何と言っても士林夜市が楽しい。MRT剣潭駅から賑やかな衣料品街を抜け美食區へ。地下一階の豪大大雞排は、名物の特大フライドチキンを求める客で列を成してい

るが、待ってでも買う価値がある。人々の視線が注がれる中、店の主が特製の衣を纏わせた鶏肉を沸騰した油の中に投入、揚げたてをトングで取り出し、二種類の調味料を振りかけ紙袋の中へ。手渡されたチキンを頬張れば、柔らかい肉にカレーのスパイスが絡む絶妙な味。舌を火傷する程の熱さながら、想像以上の美味しさにあっと言う間に胃に収まってしまう。同フロアの鉄板焼きの店、鴻賓城も気に入ってしまった店のひとつ。四方を囲む鉄板状の

テーブルに着き、眼の前で香ばしく炒められた肉や青菜を台湾ビールと共に戴く。料理は鉄板の上で常に保温されているので最後までアツアツなのが嬉しい。
 韓国ソウルでは新村の線路沿い通り、焼肉のチョルキル王カルビサルをお薦めしたい。取り壊された踏切、線路跡を背にしながら屋外で焼く牛カルビ。取り放題のサンチュやエゴマに肉を載せ、青唐辛子、ニンニク、味噌、辛味ネギを巻き込んでゴマ油で頬張れば、夜は長く話も弾む。テーブル一杯の突き出し、網の上で濛々と湯気を上げるテンジャンチゲは言うまでもなく全て無料。アジュンマが流行の食べ方を身振り手振りで教えてくれるのも一興だ。
 ヴェトナム、ホーチミンで食事をするなら物価の高いバックパッカー街を避け、「9月23日公園」を越えた

北側で探すと良い。私が通ったのはレ・タイ・レイン通り沿いのマイ・ファイという中華系ヴェトナム料理のお店。揚げ春巻き、空心菜炒め、鶏とカシューナッツ炒め、青パパイヤサラダ等が破格の安値、しかも量、クオリティー共に最高級。家族経営ならではの暖かい雰囲気と、ゲイのような腰つきで料理を運んでくる中年主人の特徴的なはしゃぎ声が今も頭を離れない。
 そして最後に東京のことも。食品の放射能安全基準を緩めざるを得ない現在、外食する機会もめっきり激減してしまった私だが、折に触れ近所の大衆居酒屋へ足を向ける。日本酒の熱燗と火鍋、焼き鳥をやりながら次の旅について想いを巡らせるのもまた、私の楽しみのひとつなのだ。
(関根敏也=リヴル・アンシャンテ)



新春特別放談 ──「女性アイドルを語ろう」番外編・Part 2
【馬飼野元宏 X 川口法博 X 大久達朗】

 いきなり余談になりますが、年始にあたってちょっとだけ机の上を整頓してたら、山積みになった書類の中から一枚の「下敷き」が出てきました。今から30数年前に入手した、カンコー学生服の販促物。思えば当時、毎日この下敷きとにらめっこしながら授業を受けていたなあ、なんてことを思い出し、新年早々ドンヨリとした気分になってしまいました(笑)。さてさて、「月刊」と「週刊」ふたつの「てりとりぃ」にまたが

って繰り広げられた「女性アイドル」対談、完結編です。(文責・編集部)
     ※
馬飼野 ピンク・レディーの大成功以降、PLフォロワーが続々と出てきたけど、スタート時にキワモノのグループを真似してもどうにもならない。キャッツアイとか(笑)。だから、麻丘めぐみや山口百恵のような一線の人はそんなにヘンなことをしないっていう安心感があったかも。でも売れなくなってくるとその限り

ではない。桜田淳子が20才を過ぎてからは「あー無茶だな」と思うことが多かったですね。
大久 桜田淳子のキャリア後半て、僕イマイチわからないんですよね。もちろん「合同結婚式」はよく覚えてますが(笑)。アイドル時代では例えばどんなのがありましたか。
馬飼野 最初は「パーティー・イズ・オーバー」ってバラード。シングルにしてTVで歌うには歌唱力が厳しいな、と。深町純作曲の「夕暮れはラブ・ソング」をスツールに座ってスタンドマイクで歌ったときも、

メロディーも難しくて、ちょっとなあ、と。決定打は、ピタピタのラメ入りボディコン衣装で歌った「ミスティー」。無茶&無理強い感が強くて、つらいなあ、と。もちろん応援はしてたんだけど。
大久 「ミスティー」は強烈ですね。ELO風味のシンセ・ディスコで、アレンジに重きを置けば今でもそれなりに聴くことができますが、あの映像を見ちゃうと言葉を失いますね(笑)。
川口 あのへんは多分ビクター制作スタッフの伝統芸で、「いまディスコ流行ってるから次はディスコ!な

っ?淳子!」的なもんだと思いますよ(笑)。たぶん想定したのはオリビア・ニュートン・ジョンの「ザナドゥ」あたりでしょう。あの頃彼女は女優でも高く評価されてたから、歌の仕事は淡々とこなしていたようにも思います。
馬飼野 無茶という意味では逆の捉え方もあって、その最たる例は高田みづえな

んですが、何でも全部「歌謡曲」に取り込んでしまう強引さがあった。「硝子坂」って、元の木之内みどり版はおセンチでヨーロピアンでウィスパーボイス、なのに高田みづえ版になると「パッパラパ〜」とホーンが響いてコブシが回る。松山千春の「青春Ⅱ」でも、サザンの「私はピアノ」でも、みづえが歌うと歌謡曲

になる。ピアノ・インストの「潮騒のメロディー」だって、先行していたさこみちよ版に比べて完全に「歌謡曲」。ある意味バーニング系歌手ならではの「競作」とか「カヴァー」、つまり音楽出版権と絡んだ選曲法なんですが、ちゃんとヒットさせるから凄いです。我が家のレコード棚にも高田みづえのシングルがやたらとあるんですが、おそらく「つい買っちゃった」んだと思う。この「つい買わせる」腕力が「歌謡曲」なんだと思うけど、アイドルでこれが出来るって凄いことでしょう。
大久 なるほど。歌が上手いとか、いい曲かどうか、なんてのを全部ひっくるめて、キャラクターに取り込んでそのキャラごと全部パッケージ、ということでしょうか。
馬飼野 その意味では中森

明菜はやっぱり別格で、多様な音楽ジャンルの飲み込みっぷりが凄かった。遂には歌詞を聞かせない歌をつくってしまうんです。『不思議』っていうアルバム(86年)は、ミックス段階で歌を後ろに引っ込めて、エコーをかけて、一体何を歌っているのか歌詞がまったく聞き取れないという。歌を聴き手と共有させる気も、

聴き手に届ける気もないんですよ。でも1位(笑)。
川口  歌唱が全く聴き取れないって、まるっきりパンクの精神ですね。僕はそのアルバム未聴なんですが、物凄く聴きたくなりますね。
大久 そういえば彼女の全米デビュー作『クロス・マイ・パーム』も、「こんな小さい声じゃ、誰が何歌ってるかさっぱりワカンネエや」と思ったことを覚えてますね。『不思議』『クリムゾン』『クロス・マイ〜』の辺りの彼女は、まさしく不思議な音楽でしたね。それと真逆だったのが松田聖子の全米進出作で、実は85

年の『サウンド・オブ・マイ・ハート』も90年の『SEIKO』も、まんま「日本のアイドル・ポップス」だったんですよね。これじゃあアメリカでは通用しないんじゃ?と危惧しました。
馬飼野 アーティスト性を出し過ぎても難しいし、そのまま行っても一般音楽ジャンルとは相容れない。僕はアーティストでも役者でも、好きになるとその人の仕事を分析して整理したくなる性格なんです。「アイドル・ポップス」はキャラと音楽性が一致しているから、分類も楽しいし発見も多い。売るために、長持ちさせるために、と人工的なことをしてるわけで、キャラにないことも無理にやる。自作自演の人だと、自分の脳内で浮かぶメロディーはおそらく自分が歌える範囲のものだと思うので、そもそも「無茶」が存在しない。

大久 そう考えるとJーPOPを境に断絶したかのように思えるアイドル文化も実は地続きだってことがスッキリ見えますね。同時にニーズに応えるための「無茶」を受け入れるのがアイドルたる所以、てことも。
馬飼野 70年代と40年代には断絶がある。そもそも40年代にポップスという概念はなかったから。でも70年代と今は繋がっているし基盤も同じだから、僕にとっては70〜80年代のアイドル歌謡を聴く際「昔の音楽」という感覚がないんです。地続きなんです。ともかく分析が好きなので、それは作業として延々と終わらないんです。
川口  分析出来る素材が出て来ないと世の中つまんないですからね。みんな勝手に「ブチブチ言いながら楽しむ」のを込みで、初めてコンテンツですからね。■

【ジャケ写・上から】 ●
キャッツ★アイ「アバンチュール」(77年5月)。テイチク/ユニオンより発売されたデビュー曲。彼女達は歌唱中意図的にパンチラを見せる、というセクシー戦略も披露。 桜田淳子「パーティー・イズ・オーバー」(79年8月)。彼女の28枚目のシングル曲。作詞・作曲は伊藤薫。 桜田淳子「ミスティー」(81年6月)のシングル・スリーヴと、販促スリーヴ。レオタードの衣装は、桜田本人のオーダーとのこと。 高田みづえ「硝子坂』(77年3月)と、「潮騒のメロディー」(79年8月)。デビュー曲である前者は同年2月に発表された木之内みどり版との競作。後者はフランク・ミルズ作曲の有名なピアノ・インスト曲に日本詞を載せたもので、もとはシングルB面曲だった(後にA面に差し替え)。 中森明菜のアルバム『不思議』(86年)と『CROSS MY PALM』(87年)。「BACK DOOR NIGHT」は前者のオープニング曲。後者は NY録音の全曲英語作品で、2年後の89年に全米発売された。「EASY RIDER」は同作収録曲。SEIKO『SOUND OF MY HEART』(85年)。名義を変え、全米進出を狙い、プロデューサーにフィル・ラモーンを迎えてNYヒットファクトリー・スタジオで録音された作品。シングル「DANCING SHOES」は12インチ盤も発売された。