2013年1月25日(金)

TV AGEシリーズ最新作「夢であいましょう 今月のうた大全」が発売

 昨年の大晦日に放送されたNHK「紅白歌合戦」で、人々にもっとも強烈な印象を残したのは、美輪明宏が歌った「ヨイトマケの唄」だろう。元は65年のヒット曲で、貧しい肉体労働者を母に持った主人公の幼い頃の回想を歌った内容で、「要注意歌謡曲」としても名高いナンバー。職業に貴

賎なしと訴えるこの曲は、21世紀の日本人にも確実に届いたのだ。
 こういう労働歌が認知された高度成長期とは、今、昭和懐古的に語られるような、決して前向きに豊かさを目指して猛進しただけの時代ではなかったはずだ。それと同時代の、61年4月から66年4月まで土曜の夜

10時台にNHKで生放送されていた番組が『夢であいましょう』。日本のテレビ黎明期に高い人気を博した音楽バラエティ番組の元祖だが、同番組内で永六輔=中村八大コンビが月替わりで新曲を発表していた「今月のうた」コーナーで発表された楽曲のコンピレーションアルバムが、このたび発売されることとなった。
 全曲六八コンビだけに名曲揃いなのは間違いないが、NHKという局の性格上、また60年代という時代背景を思っても、どこか性善説的で、単純に明るい未来を信じる建前的な世界なのでは?という危惧もあったのだが、今回収録された楽曲群を通して聴いてみると、そういった先入観はあっさりと払拭されてしまった。
日本の誇るスタンダード、坂本九の「上を向いて歩こう」にはじまり、梓みちよ

「こんにちは赤ちゃん」北島三郎「帰ろかな」ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」デューク・エイセス「おさななじみ」と誰でも知っているナンバーがずらり。それ以上に驚かされるのはサウンドの多彩さだ。ザ・ピーナッツの「幸福のシッポ」はカリプソ、ミコちゃんの「ブルージン・ブルース」はスウィング、松尾和子の「涙にしてみれば」はタンゴ、西田佐知子「故郷のように」は行進曲風、アメリカ民謡のようなワルツの益田喜頓「娘よ」があるかと思えば、前述の美輪(丸山)明宏の「誰も」はグル―ヴィーな4ビート、九ちゃんの「僕と今夜」はビッグバンドと同じ作家が書いたとは思えないバリエーションの豊富さで、中村八大の作曲家としての実力をあらためて思い知らされる。「高速一号線」で猟盤系ファン

にも知られた城山吉之助の「モンキー・ボン・ダンス」の収録も嬉しい。声質は九ちゃんにソックリで、楽曲は大滝ナイアガラの先祖のような音頭モノなのだ。そして一人称を極力使わずにシンプルな言葉で構成された永六輔の歌詞にみる発想の豊かさ。なんと芳醇な時代であったかと、この番組をリアルタイムで観られた人たちがうらやましくなる。
 また、アンニュイな都会派の西田佐知子や、中産階級の奥様方が熱狂的に支持した越路吹雪と、ハワイアンのマヒナスターズ、或いは地方色豊かな土着演歌の北島サブちゃんが同列に並んでいるのは興味深い。「帰ろかな」は三橋美智也にはじまる望郷歌謡の系譜にある楽曲だが、中村八大らしいジャズ・フレーバーが施され、サブちゃんのヴォーカルは和製ハリー・ベ

夢であいましょう 今月のうた 大全

●坂本九をはじめ、多くの人気歌手を輩出したばかりでなく、音楽監督だった中村八大、構成を手がけた永六輔など、スタッフからもスターが生まれるという、テレビの幸せな時代を象徴するような国民的番組。その看板コーナーが、中村八大作曲、永六輔作詞による「今月のうた」。毎月、月替わりで新曲が発表され、「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」など、大ヒット曲も次々に誕生した「夢であいましょう」の「今月のうた」コンピレーションが遂に登場。2枚組CDに加え、歌唱映像を収録したDVD付き。
●イラストレーション:和田誠

TOCT-29064/5 定価:¥4,200(税込)
2013年1月30日発売 発売元:(株)EMIミュージック・ジャパン

ラフォンテといった趣すらある。また、意外に松尾和子のような艶っぽい大人の愛の歌も放送されていたんだな、と製作陣の懐の深さを感じさせるのだ。「昭和」のキーワードで懐古的に振り返られる60年代は、決して「貧しくとも心は豊かだった」的な意味で括られるほど単純ではなく、都会的な東宝カラ―と、戦前の任侠的義理人情を引きずった東映的な世界と、戦後松竹

的な地方色が混在していた時間なのだ。そしてそんな時代に「今月のうた」で届けられたナンバーは、当時のどんな階層、どんな年齢の人たちにも確実に届いたに違いない。
 70年代以降、日本のポップ・ミュージックはジャンルに細分化され、世代で区切られ、「流行歌」や「ポピュラー・ミュージック」という言葉は死語となった。今や若者層は配信で音楽を

聴くようになり、音楽は限りなく「個」の楽しみに変化している。だけど、ほんの50年前は、多彩なジャンルの音楽はすべてポピュラー・ソングであったのだ。ももクロと美輪明宏が同じステージでパフォーマンスする2012年の「紅白歌合戦」と「今月のうた」は同じ発想のもとに作られているのかもしれない。どんな階層でもどんな世代でも楽しませる音楽番組、そしてそういった意思の元に作られた楽曲は、時を経ても古びないのだとこの盤の収録曲が証明してくれる。
 現存する「今月のうた」の歌唱シーンを14曲集めた貴重なDVD映像もうれしい。企画・監修をつとめた本誌編集長の尽力あっての歴史的ディスク、ぜひお楽しみください。
(馬飼野元宏=「映画秘宝」編集部)



大人の遠足——北浦和からベン・シャーン展

 1月12日、ぼくは北浦和駅にいた。それは濱田高志さんに誘われていたベン・シャーン展を見るため。北浦和という駅は慣れていない人には少しつらい。北浦和、浦和、南浦和、東浦和、西浦和、中浦和、武蔵浦和、いろんな浦和があるうえに、路線がこんがらがっているようにも思える。今回もどの浦和だっけ、と考えながら乗り換え、少しだけ遅刻して目的地に着いた。池袋からは40分弱か。ベン・シャーン展をみる会。メンバーはいつもより多い。濱田

さん、星健一さん、長井裕さん、長井雅子さん、関根敏也さん、小出ゆきみさん、秋場新太郎さん、そしてぼく。同志8人で埼玉県立近代美術館へ向かっていた。
 ぼくがはじめてベン・シャーンの絵を見たのはたしか、レコードのジャケットだった。確かな記憶ではないのだが、あのレコードはジャズミュージシャンのレコードではなく、ベートーヴェンの顔が描かれたレコードだった。確かではない記憶。というのはあの頃ぼくはまだベン・シャーンを

知らなかった。ただ、買おうとしてやめたレコードとして覚えているだけだった。
 チケットを買って、2階へ。まず目に飛び込んできたのは鉛筆で描かれた両足だった。足、足、足。そして顔になり、水彩で描かれた裸婦が並ぶ。人物。風景。そこには昔の乾いた世界のアメリカがあった。土臭いアメリカ。16トンの人生、それに、ワークソングが頭の中で流れる。『6%ビール』という題名に惹かれた。その、少しだけ高いアルコール度数に貧しさを感じた。大きなポスターの並ぶフロアに出ると、叫ぶ人たちがいる。その前に並ぶ、大き

く、無機質なアルファベット、メッセージには岩のような重さを感じた。それが最高にかっこいい、と思うのはぼくがその時代を生きていないからなのかも。
 『毛沢東』の白の余白の美しさ。独特なアルファベット。ゆらぎ。
 やはり人物画が印象に残る。そこにいる人はどれも目の球が黒く、深い。泳ぐような目。少し揺れているようにも見えた。しかしそこにはどれも大きな手がついている。クリームパンのような暖かい手。指の太い、大きな手。それが絵を全部見終わったあとのあの暖かい気持ちの原因なのかもしれない。あの手はベン・シャーン自身の手だったようにも思う。ベン・シャーンは指の太い、大きな手をもつ画家。ぼくの想像のなかではそうなった。
(馬場正道=渉猟家)



ウチの本棚
[不定期リレー・コラム]第10回:長井裕の本棚

 またか…と、読者諸氏に叱られそうなのだが、我が家には本棚が無い。全く無いというわけではないが、壁一面に作られた〝いろいろな何か〟を納める棚の一角に、申し訳程度にスペースが与えられただけである。
 〝本棚を見るとその人がわかる〟といわれるだけにお恥ずかしい限りだし、読書好きの亡母が我が家を訪問した際に「この家には本が全くないのね…(このバカ息子が)」と呆れられた

こともある。実際、我が家の蔵書に小説のたぐいはほとんど無い。あるのは資料的な内容の物ばかりだ。とはいえ小説もまあ、読むには読むのだからこれには色々と事情がある。
 第一に家が狭い(ものすごく根本的な事情)。第二にその〝何かを納める棚〟の殆どはCDやLPに占拠されているから(実はこれが一番の事情)。第三に私とカミサン共に、読み返さない本は買わない主義なの

だ(物を棄てるのが嫌い)。
 「じゃあ、お前はその小説のたぐいとやらをどうやって読んでいるんだ? 一冊まるごと本屋で立ち読みでもしているのか?」と突っ込まれそうなので、私には図書館という巨大な本棚がある、とへらず口をたたいてみる。
 私は図書館に行くのがわりかし好きだ。今でも月に数回通っている。図書館特有のピーンとした空気感や、大きめの図書館に併設された喫茶店で一息つくのもいい。読みたい本がない場合はリクエストすれば揃えてくれる。そんな図書館が、幸いにも自宅職場共に、徒歩10分程度のところにあるのだから便利なことこの上ない。
 しかし、図書館好きになったきっかけは、残念ながら熱心な本好きだからという理由ではない。貧乏な高

校生の時分、聴いてみたくとも買えないレコードやらCDを借りに通っていたからだ。熱心だったのは読書でなくて音楽の方だったのだから、図書館愛好家の方々からしてみれば、実に不届きな人間であった(図書館で一日中熟睡しているお

じさま方よりはましか…)。一事が万事で、本がやたらと冷遇されている我が家の本棚事情は推して知るべしである。本棚を見るとその人がわかる、というのは、やはり本当のことらしい。
 さて、そんな本の所有欲に淡い私なのだが、目下大

きな問題に直面している。諸事情あって実家を整理しているのだが、先述した本読みの母が大量の本を置いていった。読みたい本以外の殆どは二束三文でブックなんとかに叩き売った(棄てるよりは心が痛むまい、と涙をのんだのである)。しかし残した本は、読み終わるまで手狭な自宅に置いておくほかない(小説が殆どなので読了後には勿論売る。ただし、なんとかオフ以外で)。それらもそれなりに量があり、本にスペースを割くのに消極的な我が家での居場所を、どうしたものか途方に暮れているところなのである。
 図書館を本棚扱いしているなぞと大口をたたいたのだから、近所の図書館にでも寄贈するか…(いつでも借りられることだし)。
(長井裕=アルコール飲料愛好家)