2013年3月8日(金)

多くの人の思いがつまったピアノ
和田誠 東日本大震災チャリティ〜『朝日のあたる家』へピアノ贈呈

 ポストカードサイズの作品600点以上。東日本大震災以降現在まで、和田誠さんがチャリティのために描いた作品数だ。マザーグースや星新一作品の挿絵、ジャズミュージシャン、「週刊文春」の表紙など。これまで手がけてきた仕事のセルフカバーといえる作品をほぼ毎週10点描き、売り上げ全額を被災地に寄付している。
﹁震災後、日本人としてな

にかできることはないかと考えました。とはいえ、物資を運んだり現地でのボランティアは僕には難しい。自分にできることはなんだろうと思ったら、やっぱり絵を描くことしかなかったんです」と和田さんは言う。
 その思いに賛同した表参道のHBギャラリーでは、ギャラリー奥の一角にチャリティコーナーを設け、作品販売を担っている。販売される木曜日のオープン前

には毎週のように購入する人たちの列ができている。
 100点、200点と区切りのよいところで日本赤十字社などを通して売り上げを寄付してきたが、それが実際にどこに届き、どんな人たちの役に立っているのか具体的に見えにくい。そこでギャラリースタッフと相談し、何か役立つ「物」を、必要としている人の元へ届けてはどうか、ピアノがよいのではないかという方向へ。そして2月に陸前高田に開所される『朝日のあたる家』でピアノを所望しているという話を知り、寄贈することになった。同所は朝日新聞厚生文化事業団と特定非営利活動法人福祉フォーラム・東北による地域のコミュニティーハウス。だれもが気軽に立ち寄れる「お茶飲みスペース」で、ミニコンサートや勉強会の場所として利用される

予定だ。光あふれる施設のもっとも目立つところに寄贈したグランドピアノが置かれている。
 2月17日、開所式のために現地を訪れた和田さんは挨拶の中でこれまでの経緯を説明し、「僕が一人でピアノを寄付したように聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。絵を買ってくれた人はチャリティだから買おうという気持が強かったと思うんです。絵を描いたのは僕だけれど

も、購入してくれた人たちすべての思いがピアノという形に現れた。ギャラリーのみなさん、そして絵を買ってくれたみなさん、その多勢の人たちがこのピアノを届けたと思って下さい」と締めくくった。
 多くの人の思いがつまったピアノ。そのお披露目の演奏は和田さんの友人であるジャズピアニストの佐山雅弘さん。和田さんの思いに応えるため、佐山さんは公演の合間を縫ってこの地を訪れた。曲はジョージ・ガーシュウィン「ラプソディ・イン・ブルー」。15分ちかい演奏に、すべての人が魅了された。この後もこのピアノはさらに多くの人を楽しませることになるだろう。
 そして和田さんのチャリティ制作はこれからも継続される。
(吉田宏子=編集者)
●チャリティついてはHBギャラリーのtwitter(https://twitter.com/HBGALLERY)で確認を。 ●チャリティの作品をまとめた画集が今春講談社より刊行予定。



「帰ってきた寺山修司展」@世田谷文学館


 寺山修司。没後三〇年だそうである。何故か、まったく実感がわかない。彼が1983年に亡くなったのは事実だが、今も彼の演劇は毎年上演されているし、彼の書物も、版を重ね続けている。彼が生前に語ったとおり、彼の「ことば」はいまだずっと生きているし、いまだ影響を与え続けている。
 今年は、この世田谷文学館の展示を皮切りに、世田谷と渋谷という寺山縁の地で数々の関連イベントが開催される。
 まず、展覧会では、渋谷ポスターハリスギャラリーで、「寺山修司と天井桟敷◎全ポスター展」、そして、渋谷Bunkamuraギャラリーで「寺山修司と日本のアヴァンギャルド 1960ー1970年代を中心に」。
 映画は渋谷シネクイント

にて久々の回顧上映「寺山修司◎映像詩展」が、そして演劇では、渋谷パルコ劇場にて維新派の松本雄吉演出による「レミング 世界の涯まで連れてって」が上演される。
 いまだかつて、この様に彼のイベントが同時期にこれほど多く開催されたことは無かったと思う。これは、寺山が70年代に同時多発的に行った野外劇「ノック」や「人力飛行機ソロモン」を彷彿させる。
     ※
 そんな事を思いながら、世田谷文学館に赴いた。今回の展示は、彼の創作活動の原点である、少年~青年期の作品を中心にした新しい試みである。学生時代に創刊した幻の文芸誌「白鳥」や「牧羊神」に掲載された彼の原点とも言えるみずみずしい感性の俳句、短歌、詩の数々。

 中でも特に、目を引いたのは恩師、友人たちに宛てた多くの書簡である。彼は、中学校の恩師中野トク、「牧羊神」の同人松井牧歌や山形健次郎、短歌の恩師中井英夫らに多くの書簡を送っている。ここでは、あまり見せることの無かった彼の心の内面を垣間見る事ができ、その人間らしい姿が最も吐露されている様な気がする。特に、彼が重度のネフローゼで入院し、正に生死を彷徨っていた時期の中野トクへの書簡は、金の無心、病気に対する不安、将来に対するあせりが見て取れる。寺山が文章でここまで赤裸々に自分事を語った物は無いのではなかろうか。
 そして、その文章に添えられたイラストやデザイン。これも非常に印象深い作品で、バランス良く配置されたシンプルなアートワーク

はコクトーの線画を思わせ、既にこの時から言葉とアートの表現の融合を試みていたと言える。
 また、1Fにて見ることのできる「短歌の森」。歌集『田園に死す』の寺山の朗読が流れる中で、その短歌が書かれた短冊が部屋にいくつも吊るされている。まるで忘れないために文字を半紙に書き続けた主人公の映画「さらば箱舟」のワンシーンを思い出させ、正に寺山ワールドを五感で体験出来る展示だ。
 しかし、今回のこれほど多くの展覧会、イベントの多さに彼は天国でどう思っているのだろうか。
 「思い出さないでほしいのです。思い出されるためには忘れられなければならないのがいやなのです」。そんな彼の朴訥とした語りが聞こえてきそうである。
(星 健一=会社員)



ウチの本棚
[不定期リレー・コラム]第12回:竹部吉晃の本棚

 ビートルズファンになって早33年。今さらながら、彼らのどこが好きなのか、何に魅了されているのか、を自問自答することがある。
 1980年春にアルバム『ヘルプ!』を買って以来、今も毎週のように買い続けているレコード。西新宿小滝橋通りに出向いてのブートCDとDVDのチェックもいまだに怠ってはいない。ビートルズの音楽に惹かれていることは言うまでもない。しかしながら、家の本

棚に並ぶ大量のビートルズの書籍群を見るにつけ、自分は音楽よりも容姿が好きで、ファンを続けているのではないか、と思ってしまう。映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』で「アンド・アイ・ラブ・ハー」を歌うポールの横顔に一目ぼれしてファンになったというのも大きいのだが、4人のキャラクターや佇まい、バランス、もっといえば4人の顔に強く惹かれるのだ。ディズニーのキャラクター

に負けないくらいの多幸感に満ちあふれたビートルズの写真を見ているときこそ、最大の至福といっても言い過ぎではない。
 そんな私が最初に手に入れたビートルズ関係の書籍は、80年秋、神保町の楽器屋で親に買ってもらった「デゾ・ホフマン未公開写真集」(シンコー・ミュージック)。新品なのに、ところどころくすんでいてすでに古本のような風合いだったのだが、その感慨は言葉にできないほどで、それこそ穴が空くくらい毎日何度も見入っていた記憶がある。以来、買いに買い、集めに集めたビートルズ書。正確な数字はわかないが、小冊子やファンジン的なものまで含めると700冊は下らないのではないか。ビートルズ書といっても、研究本から関係者自著、ディスコグラフィや年表ものま

で多岐にわたるわけだが、中でも私が長年収集に注力してきたのは写真集である。昔は写真集を買うたびに4人のうち誰の写真がいちばん多いか、正の字を書いてチェックしていた。多くの写真を見続けた結果、今ではその写真が何年何月何日にどこで撮られたものなのかを特定ができる。ライブ写真であれば、コードの押さえ方を見て何を演奏しているのかを判定することができるほど。今は彼らが着ていた洋服のブランド名が知りたい。

 2000年代以降、各所から続々と貴重な写真が発見され、それらが豪華な写真集としてまとめられ、限定発売されるケースが増えた。どれも高価本ゆえ食指が伸びにくくなっているのだが、その一方でインターネット上には多くの貴重写真がアップされ、タンブラーなるSNSにアクセスすればたくさんの未発表写真を見ることができる。先日も『ラバー・ソウル』のジャケットの加工前の写真がアップされていて世界中の

ファンを驚かせたばかり。
ビートルズの写真は無限大だ。実質活動期間たった7年の間に、いったいどのくらいの写真が撮られたのだろう。まだまだ見たことのない写真が出てきそうだ。ブートで貴重音源を聴いたときよりも、貴重写真を見たときの感動のほうが大きくなっている今、やはり自分はビートルズの顔が好きだからファンなのではないか、と思う。
(竹部吉晃=編集者/ライター)