ぼくは4月の終わりから5月の終わりまで、インドネシア、ジャカルタにいた。約1ヶ月、コスという、日本でいう寮のようなところにいた。ゴキブリ、トカゲ、大量のアリのいる部屋。朝
はこのアリに起こされる。くすぐったいなあ、と思って起きると、体の上をアリが歩いているのだ。 毎日、ぼくは友人Aの母親が作る朝ご飯を食べに行っていた。スマトラ島のパ
ダン料理。インド料理に影響を受けたこのパダン料理はどれも辛い。そしてその日食べる分は朝、一度に作る。年中暑いインドネシアでは料理が腐らないように油を多く使う。パダン料理は脂っこく、辛い。なるほど、ここの家族は全員が太っていた。鶏の唐揚げをサンバルソースという唐辛子のソースに和えたもの。ほか、ケチャップマニス、キャラメルのような甘さの甘辛いソースに和えたもの。日本のかき揚げのような料理。ココナッツのカレーのような料理もある。野菜はスープでとる。この家族、あまり野菜は食べないようだ。ソト・バタウイ、というヤギの内臓を入れた牛乳のスープ。エビ、イカ、牛肉、魚、これもまたいろんな味のサンバルソースで食べる。魚にはサンバル・ヒジョウ、といって緑色の唐
辛子を使い、少し苦味のあるソースを使う。これもまたうまい。 朝からそんな脂っこい料理ばかり食べていて大丈夫なわけがない。だんだん胃がもたれてきていた。朝、
パダン料理を食べれば夜まで、またはそれ一食で次の日まで何も食べずにいれた。朝食が食べ終わると、バジャイに乗ってレコード屋へ行く。お腹が空いたらこれを食べなさい。渡されたの
も揚げ物だった。シンコン・ゴレン、といってタピオカ芋を揚げたもの。レコード屋へ持っていくとその家族には内緒でそこにいるみんなにあげていた。二十円のコーヒーと一箱百円の煙草。カビだらけ、土に返ろうとしているレコードを一日中触っていた。 今年はSP盤も買った。はじめて買うSP盤は知らないことばかりだった。インドネシアにまだレコードレーベルのない時代。インドネシアの音楽はドイツのレーベル、ベカから出ていた。フランスからやってきた上海のレーベル、パテから出たインドネシア音楽、なんていうのもあった。そこにはなぜかメイド・イン・インディアの文字。 陶器のように割れやすいSP盤は持って帰るまで、とても怖い。まず、扱い方がわからない。でも、SP
盤から流れてくる音は生の演奏に一番近い気がした。あたたかい音。ノイズの中、大雨に打たれながら聴く生バンド。 一ヶ月なんてあっという間だった。でも、日本へ帰るとぼくはいつの間にかおじさんになっていたのだ。お腹にいた姉の子供が生まれて外に出ていた。 (馬場正道=渉猟家)
パリ郊外、ブシー・サン・ジョルジュの想い出
吹きすさぶ強風。頬を叩きつける雨。私はとある町への経由地として、パリ郊外ブシー・サン・ジョルジュ駅に趣いていた。5月も下旬に差し掛かかろうと言うのにパリ周辺の気温は日中でも10度をわずかに越える程度。おまけに、まるで日本の梅雨時のように連日
の風雨に見舞われてもいた。 ジャケットの襟を立て、傘を開く私。駅周辺を見廻すと郊外の新興地然とした真新しいアパルトマンが整然と建ち並ぶ姿があり、それらの一階部分には大手スーパーやブティックの看板を読み取ることもできる。 まずはブランチをという
ことで、私はあてどもなく町を歩き出した。ほどなく眼に止まったのはタン・フレールという名のアジアン・スーパーの威容だ。赤地に金や白抜きで漢字が並ぶ装飾に異常なまでの親近感を持つのは、欧州を旅する東アジアの民として極自然な反応と言える。店内を覗けばアジア系の人々がレジに大挙列をなし、どこからか迷い込んでしまったフランス人が眼を白黒させているという塩梅。大量の食材、調味料が並ぶ陳列棚には中華系を始め、韓国、タイ、ヴェトナム製品の他、アジア諸地域向けにパッケージされた日本製品もわずかながら認めることができた。事態を飲み込んで再び町を歩き出すと、なるほど確かにすれ違う人々は東アジア系の人ばかり。なおも通りを往くとアジア人の経営する美容室、雑貨店、サンド
ウィッチ屋、レストランを次々と発見。驚くべきことに町は一大中華タウンをなしていたのだ。 それにしてもなぜこんな場所に? という疑問は、この後彼らが利用しているローカルバスに乗り合わせることで瓦解した。この地域周辺には大手企業の大規模な倉庫や製造工場が無数にあり、ブシー・サン・ジョルジュはそこに従事するアジア人が多く住まう町となっていたのだ。パリ滞在も10日を越え、シンプルな味付けの肉料理や冷たいパン食に飽き飽きしていた私は、看板に『PHO』の文字が踊るヴェトナム系中華料理店『香満樓』に矢も楯もたまらず飛び込むことになった。が、席に通され、まず最初に私の気を引いたのは、他でもないそこで流されているBGMだったのだ。「時の流れに身をまか
せ」「ワインレッドの心」が続けざまにかかり、これは有線の日本チャンネルか? と思った直後、聴き覚えのない中華圏のポップ・ミュージックが次々と流れ出す。たとえばマイナーキーで攻める70年代映画音楽の如き佳曲、マーヴィン・ゲイの「セクシャル・ヒーリング」風の楽曲にソフトロック的なコーラスを絡ま
せたR&B、陽気な上海系ビッグ・バンド歌謡で場を和ませたかと思えばお次は洒脱なアシッド・ジャズと、まったくもって尋常ではないセンスの選曲。しかも、メニューを持ってきた青年が何とも流暢な日本語を話すではないか! 「日本語はアニメや漫画から覚えました。80%くらいは理解できます。ええ、ここでかか
っている曲も私が編集したものです。こういう楽曲はユーチューブで探してネットやパリに出た時に購入します。中国や台湾、香港や日本の昔の曲って何か共通するものがあるんです。アジアの人々は昔の方がずっと仲が良かったんじゃないかなと思うんですよ」そう話すマチュー・ドアン氏は広東人ながらラオス系の血をわずかに引いているとのこと。一家は内戦を逃れる形でフランスへ移住して来たのだという。ドアン氏の極上の選曲と人柄、暖かい牛肉のフォーで身も心も満たされた私は旅の疲弊をにわかに吹き飛ばすことができた。ブシー・サン・ジョルジュの想い出はドアン氏と共にある。旅から帰った今も、私は彼の選曲したBGMを聴きたくて堪らない。 (関根敏也=リヴル・アンシャンテ)
カレーな日々~ミールスにハマる日々
世の中カレー好きが多い。その例に漏れず、私もそのひとり。 感動の味を求めて日々、カレー&インド料理屋を巡っています。 カレーと一口にいっても
インド、タイ、欧風…その種類は様々。様々なタイプがあるからこそ、カレー&インド料理屋巡りは新しい発見があってやめられない。 そんな中、最近ハマっているのが、ミールスといわ
れる南インドの定食。何種類ものカレーをはじめ、色々なおかずが一つのお皿に盛られています。 そのお皿を見ているだけでも楽しくなります。最初はこれが一人前かと思うほどの料理の種類とボリュームですが、それもミールスの魅力。 ミールスにかかせないのが酸っぱく辛みがきいた「ラッサム」というスープと、豆と野菜のカレー「サンバル」。ライスは粘り気のないバラバラしたパスマティ米。それに、薄いお煎餅のようなパパドに平らな揚げパンのようなプーリ。さらにチキンや海老といったカレーが数種。これが基本形ともいえる内容です(ベジタブルのみというミールスもありますが)。 また、店によってワダとかウプマとかチャトニーとかカートとかアチャールと
いったサイドメニュー的な料理やソースも付いてきます。名前だけ聞いたら最初はどんな食べ物か想像できないかもしれませんが、一度体験すればその旨さが分かるはずです。 そして、なんといってもポイントはその食べ方。最初にミールスを体験したのは御徒町のとあるお店でした。それぞれのカレーを別々に味わいながらライスを食べていたら、インド人と思われるお店の人が私のスプーンを取りあげて、「ラッサム」「サンバル」をはじめ、皿にあるカレーを全部ライスにかけて、かき混ぜはじめました。「こうして食べなくちゃ。美味しいよ」と。確かにこれは今までに体験したことのない旨さでした。周囲を見渡すと、店内のお客さんはほぼインド人と思われる人達で、同じようにかき混ぜて食べて
いる。しかも、人によっては上手に手で食べているではないですか! ということで、それ以来、ミールスの魅力に目覚め、日々かき混ぜ方に磨きをかけるべく、南インド料理屋通いを続けているという次第。今更何を? という人は横において、この感動を未体験の人には是非におススメ。 ちなみに、インドのカレー=ナンで食べるというイメージが定着していますが(実際にもインド・カレー系の多くのお店がナンを出
しているし、私も大好きなのですが)、南インドのカレーはさっぱりサラサラ系で通常ナンではなくライスで食べることが多いようですね。 (関口茂=音楽カタログ探求者) ーーーーーーーーーーーー (写真右上)御徒町のとあるお店にて。かき混ぜて食べるように指南を受けたお店がこちら。(写真左下2枚)行列ができる程の有名店。最近一番通っているお店。ワダもウプマも付いて品数はナンバーワン。
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