[桜井順×古川タク]
ブレない人生、河崎実監督の爆笑痛快パーティー
会場となった学士会館の二一〇号室は、相当広い部屋にもかかわらず満員状態。ざっと見渡しても300人は優に超えていただろう。日本一のバカ映画監督・河崎実が意外にも初めて催すという大掛かりなパーティーだそうだ。たしかに今まで撮影の一環としてのパーティー・シーンしか経験がなかった。オープニングはもちろん映像を駆使して。監督が昔からリスペクトしてやまない加山雄三の番組「若大将のゆうゆう散歩」
のパロディーでしっかり笑いをとって、賑やかな宴はスタートした。 懐かしい顔に続々と再会する中で、そういえば何のパーティーだったっけと一瞬分からなくなったが、今回は監督の半生記ともいうべき著書の出版記念がメインなのであった。そんな風に思ったのは、きっと主催者側の予想を上回る数になったと思われる会が、まるで監督の結婚披露宴のような雰囲気を醸し出していたからにほかならない。御両
親もちゃんと列席されていたし。ほかにも生誕55周年や、ライフワーク「電エース」シリーズ開始25年、経営するバー「ルナベース」開店3周年、そして新作映画製作決定なども兼ねたオール祝賀パーティーにこれだけの列席者が集まったのは、監督の人徳なのか、あるいはなかなか開かれない披露宴に痺れを切らした関係者たちが、その代わりにと訪れた結果であろうか。いずれにせよ交友の広さを物語る盛況ぶりだった。 ゲストの挨拶も森次晃嗣を皮切りに、発起人に名を連ねる古谷敏、モト冬樹、さらに中田博久、藤岡弘、ら、これまで河崎作品に出演してきた豪華な面々が次々と登壇して注目を集めた。『いかレスラー』の西村修とAKIRA、つまりはいかレスラーとたこレスラーの2ショットには、近くに
いたプロレス・ファンの友人が快哉を叫んでいた。バカ映画の巨匠と呼ばれるだけに、賞には縁がないと思われがちだが、実は『日本以外全部沈没』で第16回東京スポーツ映画大賞特別作品賞を受賞。『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』ではヴェネチア国際映画祭に公式招待。2009年には日本映画批評家大賞の特別敢闘賞も受賞しているのだ。一貫してブレずに娯楽作品を撮り続けてきた賜物である。 肝心の著書「河崎実監督の絶対やせる爆笑痛快人生読本」は聞き書きではなく、監督自らが自分の言葉で綴った由。タイトルはシャレで、書店で間違ってダイエット本のコーナーに並べられることを想定してのことらしい。普通は自伝の類など、気合が入って自分をカッコよく見せようとするも
のだろうに、いつまでも悪戯心の絶えない御仁である。その半生がいかに爆笑なものであったかは、帯にある秀逸なコピ―〝どこに出しても恥ずかしい監督〟がすべてを物語っている。とにかく読むべし。〝年の離れた友達〟実相寺昭雄との出会いがもしもなかったら、河崎監督の歴史はまた違うものになっていただろう。人生はつくづく人との繋がりが大切であることを教えてくれる啓蒙の書でもある。それにしても『若大将の逆襲』を見てみたい。加山サンの傘寿までになんとか実現させてください。(文中敬称略) (鈴木啓之=アーカイヴァー) ーーーーーーーーーーーー 「河崎実監督の絶対やせる爆笑痛快人生読本」発売中/アマゾンへのリンクはこちら。●出版記念 ミニトークイベント〜7/6 神保町・書泉グランデ ※人員に制限あり。事前に会場までお問い合わせ下さい。
「LOVE IS THERE〜NOVO COMPLETE WORKS」が発売
1967年頃、日本でボサノヴァは歌謡曲の世界にも浸透していたようだ。佐良直美が「私の好きなもの」をヒットさせ、ザ・ピーナッツがベストアルバムの中
でヒット曲をボサノヴァのアレンジで録音したりしている。翌68年にはセルジオ・メンデス&ブラジル66やアストラッド・ジルベルトが来日。後に本国で大活躍
するクラウヂア(当時の日本表記はクラウディア)が浜口庫之助に呼ばれ日本に長期滞在、「恋のカローラ」を歌ってもいる。そんなボサノヴァのブームを背景に、ノーヴォは誕生した。 前身は、天才肌の音楽家・横倉裕が成蹊高校在学中に結成していた、セルジオ・メンデス&ブラジル66スタイルのグループ、マザーズ・ウォーリー。メンバー・チェンジを繰り返していたこのグループには、中学生時代に女子だけでセルジオ・メンデスを演奏するバンドで歌っていた藤川あおいも在籍した。このグループが発展するような形で、ノーヴォは生まれた。 ところで、60年代末から70年代初頭にかけて、セルジオ・メンデス&ブラジル66やボサノヴァに憧れてそのスタイルを踏襲したグループは数多くいた。しかし、
メジャーな歌謡曲の世界で活動していた彼らの多くは、純粋にボサノヴァを追求することは叶わず、ボサノヴァ、ひいてはラテン・ポップスの影響下にある歌謡曲を発売することになる。 10年近く前のことだが、来日したセルジオ・メンデスに、当時日本で、セルジオの影響を受けて生まれたグループの音楽をいくつか、名を伏せて聴いてもらったことがある。ほとんどのグループに対し「僕の音楽から影響を受けたとは思えない」と答えたのに対し、「ユタカだね。彼は私の音楽のとても良き理解者だ」と、唯一笑顔で答えたのが、ノーヴォの「愛を育てる」(作詞・山上路夫=作曲・村井邦彦)だった。 このエピソードを聞けば、ノーヴォが2枚のシングル盤を残して解散したという事実もうなずける。音楽的
な実力の問題ではなく、彼らは、自分たちがやりたいことができないのなら、やらない、と思ったまでだ。バンド解散後、横倉はセルジオを頼って渡米、現在も彼の地で活躍している。 既発曲に当時の未発表曲を加えた作品集の発売にあたり、ノーヴォは数年ぶりにオリジナル・メンバーで2曲を録音した。うち1曲はドリ・カイーミをギターに迎えた「愛を育てる」の新ヴァージョンだ。グループ名の〝ノーヴォ〟とは直訳すれば〝新しい〟という意味だが、それは彼らにとって、〝今までになかった、自分たちをワクワクさせてくれる何か〟と同義なんだろうなということは、1970年代初頭に彼らが残した曲からも、文字通り新しい2曲からも、ひしひしと伝わってくる。 (麻生雅人=モノ書き)
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