[桜井順×古川タク]
去りし時を知って 〜バーミィーと中央線の40年〜
高円寺の繁華な商店街に生まれ育ち今もって暮らしているものの、行きつけの地元飲食店の数はさほど多くはない。味がよい、安価である、量が多いというのが私が店を選ぶ第一条件だが、そういった次元を飛び
越え、ついつい足を運んでしまうという店も少なからず存在する。アジアの料理とお酒『バーミィー』もそんな店のひとつだ。90年代の半ば、地元商店街の知人と連れ立って何の気なしに入ったのが最初だったのだ
が、店の四分の一ほどのスペースを占有するレコード棚の存在にまず圧倒されたのを克明に覚えている。タイ、ヴェトナム、フィリピン、カンボジア、ミャンマー、インドネシアといった各国料理が並ぶ雑多なメニューから注文を終え、シンハーやサン・ミゲールといったビールを飲みながら店内でプレイされている60年代風のロックに耳を傾けること数分、厨房から現れた眼鏡に裕次郎刈りという店長らしき中年男性に「今かかっている曲はなんですか?」と親愛の情を込め訊ねるも「ゲス・フー!」と、険しい口調で応えられ出鼻を挫かれたのを思い出す。当時はあのカナダのロック・バンドの楽曲なのだろうと解したのだが、あるいは「さーて、誰かな?」という暗喩であったのかも知れない。
時は流れ、今では私が店に顔を出すとユーミンや竹内まりや、A&Mものなどを粛々とターンテーブルに乗せて戴けるまでになった。他に客が居ない時など、しばしば会話は店長とママ、私のほぼツー・ツー・マン状態となり、その過程で店長のイサさんがシュガー・ベイブや愛奴、サザンオールスターズやRCサクセションが出演していた時代の荻窪ロフトに従事、のち来生たかお、南佳孝らが名を成した西荻ロフトの店長を務めていたこと、接客上手なママのルミコさんがキャバレーの踊り子として糊口を凌ぎながらも、劇団青年座で女優を志していた人であったことを知り、底知れぬこの店の魅力に深く感じ入ったものである。99年頃には「21世紀に残すこの一枚」なる企画で、お気に入りのレコードと共に来客を
ポラロイドカメラで撮影。店内の壁という壁に貼り出した大量の写真は今もその一部を残す。名前は差し控えるが、中にはいかにも高円寺といった著名人たちの姿も見ることができる。 『バーミィー』は流行りの洒落たアジア料理店ではない。厳選素材を使った自然食志向の店でもなければ、アルミや電飾、屋台風の装飾が眼を楽しませる店でもない。が、この高円寺の魔窟とでも言うべき空間は東南アジアにあるどのB級飲
食店をも凌駕する混沌に満ち、特にその食卓の環境面において微笑ましいほどにアジアな食堂である。いつかあなたがふらりとこの店に迷い込むことになったなら、その雰囲気と気のおけない会話に酔って戴きたい。音楽と、匂い立つような独特のカルチャーの渦になすがまま身を投じて戴きたい。過ぎる程に濃厚で特異な夜がそこに現出するはずだから。 (関根敏也=リヴル・アンシャンテ)
【ヴィンテージ・ミュージック・ボックス】その4
くつろぎの時間に生まれたひとつの名曲「アフター・アワーズ」
《アフター・アワーズ》という言葉は、仕事を終えた後のくつろいで過ごす時間のことだと思ってたが、あらためて辞書をめくるとむしろ逆の意味で、就業時間がすぎているのに働かなければならない《残業》のことだった。 アルバム・タイトルや音楽の文章でしばしば見かける《アフター・アワーズ》は《残業》ともまた少し違って、クラブなどでの演奏の《仕事》が終わった後、演奏者が自分たちのために楽しんでジャム・セッションができる自由な時間のことなのだ。 ジャズ・スタンダードの「アフター・アワーズ」はシンプルな12小節のブルースだ。メロディーもリフも目立った特徴はないのだけど、心地よくアフター・ビートが響き、ゆるりとくつろいだ雰囲気に包んでしま
う一種独特のムードがある。その曲調からジャズだけでなくブルースとしても取り上げられることも多い。 この曲がスタンダードとして広まったのは、ブルージーなプレイが持ち味のジャズ・ピアニスト、レイ・ブライアントが演奏してからではないだろうか。57年にディジー・ガレスピー、ソニー・ロリンズらとのア
ルバム『ソニー・サイド・アップ』のなかの、12小節ごとに新しいフレーズをまとってゆく端正な演奏には誰もが魅了されるだろう。 「アフター・アワーズ」の初演は40年。ダンサブルなスウィング・ジャズを売りにしていたアースキン・ホーキンス楽団が吹き込んだ。リーダーでありトランペッターのホーキンスの名
義だが、楽団らしい演奏は終わり間際にブラスが加わる数十秒だけで、ほとんどがピアノだけで演奏されている。このレコードでの真の主役はピアニストであり、作曲者でもあるエイヴェリー・パリッシュだ。 この曲はまさに《アフター・アワーズ》に生まれた。パリッシュがこの曲を《仕事》の後、ゆらゆら気楽に演奏していたら、楽団のメンバーたちが気に入り、レコーディングすることになったという。それが思いがけずナショナル・ヒットとなり「タキシード・ジャンクション」に並ぶアースキン・ホーキンス楽団の代表曲になったのだ。 最初の発表以降、ほとんど忘れられていた「アフター・アワーズ」が50年代末になって再び注目されたため、60年にLPで復刻された。そのジャケットには、
なんとバンドのリーダーであるはずのアースキン・ホーキンスの姿はなく、ピアニストが大きく描かれてる。いくらピアノがメインの曲である「アフター・アワーズ」が、このアルバムのハイライトだからといっても、ホーキンスらしきものはピアノの上のトランペットだけ、とはね……。 パリッシュは41年にホー
キンス楽団を離れ、クラブで演奏を続けていたが、42年に喧嘩が原因で半身麻痺になり演奏ができなくなった。彼は引退後、日雇いの労働をしていたという。そして59年、42歳で謎の死を遂げた。名曲をひとつ残したものの、パリッシュ名義の録音は残っていない。 (古田直=中古レコード店「ダックスープ」店主)●写真上『アフター・アワーズ』タイトル曲が再び人気がでたことでリリースされたアースキン・ホーキンス楽団の38~46年のブルーバード録音集。 ●写真下『アフター・アワーズ』のオリジナルSPレコード。作曲クレジットはアースキン・ホーキンスになっているが、実際はエイヴェリー・パリッシュだ。
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